仮定法過去〜天使の梯子6
2008/06/03 Tue [Edit]
ヤン・ウェンリーを首座に押し上げ、政権の基盤を確固たるものにし、首席を補佐して余りあるものがあった筆頭補佐官は、トリューニヒトの応えに、鋭利な美貌を複雑な表情 にし、ついで、深い、深い吐息を零した。
「・・ウェンリーは・・・」
つと、首席の執務机の端に、軽く腰掛ける。
「あの子は、初めから、貴方を認めていたさ」
極細の筆で描いたような眉が、漆黒の瞳を抱く切れ長の目の上で、僅かに歪む。それが、ルイーゼの、心中の複雑さを物語る全てである。
「あの子にとって、貴方は、ことごとく反発の対象だったよな」
マスコミはおろか、市民すら肴にした。
水と油、プラスとマイナス。そして、無欲と我欲。
「まったく・・・、いっそ見事な程だ」
「だから?」
「『だから?』」
朱に映えた薄い口唇に、些 かきつ過ぎる笑みが刷かれる。
「だから。あの子にとっては、貴方こそが執着であったということさ」
「・・・執着?」
執着。
そう、それは、ある種の執着だ。
ラインハルトもアンネローゼも、相対する陣営にいたというだけで、本質的にはヤンと同質でしかなく、あちら側のアクションがなければ、ヤンからは、何のリアクションも起きなかったはずだ。
だが、この男だけは、違った。
ヤンは、初めから、この男を・・、この男だけは、客観視することが出来なかった。
歴史の頁を眺めるようには、見ることが出来なかった。
その男は、同質でありながら、異質だった。
ヨブ・トリューニヒトという存在があったからこそ、ヤンは、自分では考えも付かないことを見つめることが出来、自分では逆立ちしても出来ないことがあるのだという事実も見、その立場故に、素知らぬ顔で擦れ違うことも出来なかったのだ。
これもまた、偶然の積み重ねによる必然か。
それとも、必然の欲した偶然なのか。
「あの子は貴方を、一流の政治家として、認めていたさ。認めていたからこそ、ああも憎悪し、反発もしたわけだからな」
まさか気付いていなかったのか?と。そんな、謗 りさえ見える声に、ヤンの政府顧問だった男は、ただ押し黙っている。
確かに、気付いていなかったわけではない。
人は、何の根拠もなく嫌悪はしないし、ましてや、何の根拠もない憎悪はしない。嫌悪や憎悪の発端は、概ね、生理的な不快とか感情の縺れとかによるものだが、それとは別に、才能を認めたくない故の嫌悪、才能を認めているからこその憎悪というものも、あるのだ。
確かに、気付いていなかったわけではない。
感触として、互いに感じ取っていたことかもしれない。
だが、御互いが御互いに、理解出来なかった。
ヨブ・トリューニヒトにとっては、独裁者になれる機会を、まるで溝 に捨てるかのように見向きもしなかったヤンを理解できなかったように、ヤンもまた、優れた為政者になれる才覚がありながら、その才を、まるで溝 に垂れ流すように浪費するようなトリューニヒトの志向性も、まったく理解出来なかったのだ。
仮に、もし仮に、トリューニヒトが、単純に利権を食い荒らすだけの二流の政治家であったら、ヤンは、ああまで憎悪し、反発することはなかっただろう。他の利権屋と同じように、歴史の頁を眺めるように無視することも出来たのだ。
だが、時代の風を敏感に嗅ぎ分け、風の吹く先すら予測出来る才を認めていたからこそ、それは、言い様のない、誰に理解されることもない程の憎悪にもなったのだし、世論の盛大な反発を受けると承知していて尚、自らの政府顧問とすることにもなったのだろう。
ヨブ・トリューニヒトは、良くも悪くも、政治家としては傑出した人物であり、その才と知悉は、ヤンの異才を持ってしても太刀打ちできない所在を、明確に知らしめるものでもあったのだ。
自己の才の、限界というもの。
そして、おそらくは、「望み得ない才能の所在」という存在こそが、ヤンを、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの再来とすることもなかったのだ。
「あの子にとっては、貴方こそが、当代稀な政治家だったのだろうよ」
この男故に、この男がいたからこそ、ヤンは、天才の孤独とか、異才故の孤高とかいう、訳の分からないものに、囚われずに済んだのだ。
そして、ルイーゼの、それが、心中の複雑さであり、これもまた、才能の所在故の憎悪というものだろうか。
それまで、押し黙って拝聴していたトリューニヒトが、ここが潮と踏んだのか、自嘲めいた失笑を浮かべた。
「・・・確かに・・。確かに・・、な」
「ん?」
「私は、根っからの政治家だからね。変わるつもりもないし、変わりたいと、思ったこともないな」
一瞬、呆け。
やおら、苦笑し。
ついで、破顔した。
で、あればこそ。
ヨブ・トリューニヒトが、テロリズムを利用することがあっても、テロリストに成り下がることはなかったのだ。
人には、出来ることと、出来ないことがある。
あの子は。
ヤンは、自己の才の限界を、きちんと承知していた。
故に、この男を欲したのだ。
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「仮定法過去〜VARIATION2」 52頁 1998年5月3日 初出
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「・・ウェンリーは・・・」
つと、首席の執務机の端に、軽く腰掛ける。
「あの子は、初めから、貴方を認めていたさ」
極細の筆で描いたような眉が、漆黒の瞳を抱く切れ長の目の上で、僅かに歪む。それが、ルイーゼの、心中の複雑さを物語る全てである。
「あの子にとって、貴方は、ことごとく反発の対象だったよな」
マスコミはおろか、市民すら肴にした。
水と油、プラスとマイナス。そして、無欲と我欲。
「まったく・・・、いっそ見事な程だ」
「だから?」
「『だから?』」
朱に映えた薄い口唇に、
「だから。あの子にとっては、貴方こそが執着であったということさ」
「・・・執着?」
執着。
そう、それは、ある種の執着だ。
ラインハルトもアンネローゼも、相対する陣営にいたというだけで、本質的にはヤンと同質でしかなく、あちら側のアクションがなければ、ヤンからは、何のリアクションも起きなかったはずだ。
だが、この男だけは、違った。
ヤンは、初めから、この男を・・、この男だけは、客観視することが出来なかった。
歴史の頁を眺めるようには、見ることが出来なかった。
その男は、同質でありながら、異質だった。
ヨブ・トリューニヒトという存在があったからこそ、ヤンは、自分では考えも付かないことを見つめることが出来、自分では逆立ちしても出来ないことがあるのだという事実も見、その立場故に、素知らぬ顔で擦れ違うことも出来なかったのだ。
これもまた、偶然の積み重ねによる必然か。
それとも、必然の欲した偶然なのか。
「あの子は貴方を、一流の政治家として、認めていたさ。認めていたからこそ、ああも憎悪し、反発もしたわけだからな」
まさか気付いていなかったのか?と。そんな、
確かに、気付いていなかったわけではない。
人は、何の根拠もなく嫌悪はしないし、ましてや、何の根拠もない憎悪はしない。嫌悪や憎悪の発端は、概ね、生理的な不快とか感情の縺れとかによるものだが、それとは別に、才能を認めたくない故の嫌悪、才能を認めているからこその憎悪というものも、あるのだ。
確かに、気付いていなかったわけではない。
感触として、互いに感じ取っていたことかもしれない。
だが、御互いが御互いに、理解出来なかった。
ヨブ・トリューニヒトにとっては、独裁者になれる機会を、まるで
仮に、もし仮に、トリューニヒトが、単純に利権を食い荒らすだけの二流の政治家であったら、ヤンは、ああまで憎悪し、反発することはなかっただろう。他の利権屋と同じように、歴史の頁を眺めるように無視することも出来たのだ。
だが、時代の風を敏感に嗅ぎ分け、風の吹く先すら予測出来る才を認めていたからこそ、それは、言い様のない、誰に理解されることもない程の憎悪にもなったのだし、世論の盛大な反発を受けると承知していて尚、自らの政府顧問とすることにもなったのだろう。
ヨブ・トリューニヒトは、良くも悪くも、政治家としては傑出した人物であり、その才と知悉は、ヤンの異才を持ってしても太刀打ちできない所在を、明確に知らしめるものでもあったのだ。
自己の才の、限界というもの。
そして、おそらくは、「望み得ない才能の所在」という存在こそが、ヤンを、ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムの再来とすることもなかったのだ。
「あの子にとっては、貴方こそが、当代稀な政治家だったのだろうよ」
この男故に、この男がいたからこそ、ヤンは、天才の孤独とか、異才故の孤高とかいう、訳の分からないものに、囚われずに済んだのだ。
そして、ルイーゼの、それが、心中の複雑さであり、これもまた、才能の所在故の憎悪というものだろうか。
それまで、押し黙って拝聴していたトリューニヒトが、ここが潮と踏んだのか、自嘲めいた失笑を浮かべた。
「・・・確かに・・。確かに・・、な」
「ん?」
「私は、根っからの政治家だからね。変わるつもりもないし、変わりたいと、思ったこともないな」
一瞬、呆け。
やおら、苦笑し。
ついで、破顔した。
で、あればこそ。
ヨブ・トリューニヒトが、テロリズムを利用することがあっても、テロリストに成り下がることはなかったのだ。
人には、出来ることと、出来ないことがある。
あの子は。
ヤンは、自己の才の限界を、きちんと承知していた。
故に、この男を欲したのだ。
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「仮定法過去〜VARIATION2」 52頁 1998年5月3日 初出
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