仮定法過去〜遠い夜明け(172.
米 米 米
その腕、その胸の中は、まるで深海に似ている。
厳としているのに穏やかで、深として無であるのに満ちている。
峻刻とした厳しさを孕んで、まるで絶界のように思えるのに、緩やかな潮流は絶えず揺蕩 って、不思議な輝きに満ちている。
それは、きっと、その男が発散する、生の輝きそのものだ。
おまえは、それを奪う側なのだと、その男に告げられて、ヤンは、立ち竦んでしまっていたのだ。
無音の闇と無明の世界に取り残されて、一歩も動けなかった。
音もなく、光もない世界に閉じ籠もって、いっそ心も閉ざしていた方が、楽だった。
コンナニ長生キスルハズジャ ナカッタノニ・・・。
戦争という人殺しだけが取り得でしかないのなら。
イッソ 誰カガ 私ヲ殺シテ クレルマデ。
空を切って弧を描く炭素クリスタルの美しい白刃が振り下ろされるのを、あるいは、待っていたのかもしれない。
そして、幽明の境で憶えているのは、音もなく光も無い闇の中で茫と浮かぶ暖かな光と、その男の声。
その声が、何故今更、自分のことを呼ぶのかが、理解 らなかった。
光の在処は承知 っていて、そこに行けば、きっともう、何も考えずに済む。
なのに・・・。
その声の必死さが、幽境の狭間に満ちていた。
無音の闇の中、それは声ばかりで、その姿は、どこにも見えないのに。
痛い程の想いが幽思に溢れて、まるで深海のように包み込んでいた。
易々と、ヤンを受け止めてきた力強い腕と、深い胸の広さと。
多分、あれから、失うことばかりを、怖れていたような気がする。
望みもしないものばかりが溢れて、溢れるごとに、怖ろしくなる。
拡大するばかりの権力の代償が、この男であったら・・・。
きっと、もう、耐えられない。
それくらいなら、いっそ。
何モ見ナイ方ガ イイ。
何モ聞カナケレバ・・・。
クスと、ヤンが、小さく自嘲 う。
だがそれは、先刻 の自虐的な色合いを孕んだものとは違う、確かに自身を見詰めた自嘲の笑みだ。
春になったら。
きっと、この男は、辛抱強く待ってくれていたのだろうに。
春に・・なったら・・・。
正体のないものに怯えて、無音の闇に閉じこもって、一人で足掻いていたのだ。
この男は、ずっと、傍にいてくれたのに・・・。
その腕、その胸の中は、深海に似ている。
厳として穏やかで、深として無であるのに、満ちている。
「ワルター・・・、ねぇ、ワルター」
その言い回しに、ヤンの心が、やっとヤンに還ってきたようだと、シェーンコップが微苦笑する。
「何です?」
それは、ヤンが細 やかな我儘を言う時の、癖なのだ。
「スノー・ホワイトは、まだ、あそこの主で、いるかな」
スノー・ホワイト?
イゼルローンの仮初 の森林公園を縄張りにしていた、金と青の瞳を持つオッドアイの白猫を、ヤンは【白雪姫 】と呼んでいた。
「さあ・・・。どうでしょうな」
難なく腕の中に納まってしまう、心細い手応えばかりの躰の負担にならないように抱き込みながら、応えた声は、少し癖のある黒髪を撫でていく。
「春になったら・・、また行こうって、言ったよね」
それは、イゼルローンを放棄して、虚空に浮かぶ軍事要塞を脱出する間際のことだ。
春になったら・・、また来たいよね・・・。
「ええ。言いましたな」
春になったら・・、また来ましょう・・・。
少し視線を落として、ほんの少し身動 いで、ヤンが、視線を上げる。
青みをさえ感じさせる黒い瞳が、灰褐色 の瞳を見詰める。
「春になるのがいつになるかは分からないけれど・・・。夜が明けるのさえ随分と遠く思えるけれど・・・」
「閣下?」
「どこまで行けるのかも分からないけれど・・・。でも君・・・、ちゃんと見届けてくれるね」
遠い夜明け(173.へ続く
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仮定法過去「遠い夜明け」308頁 1996年08月18日初出(内、当該本文293頁) 加筆修正

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その腕、その胸の中は、まるで深海に似ている。
厳としているのに穏やかで、深として無であるのに満ちている。
峻刻とした厳しさを孕んで、まるで絶界のように思えるのに、緩やかな潮流は絶えず
それは、きっと、その男が発散する、生の輝きそのものだ。
おまえは、それを奪う側なのだと、その男に告げられて、ヤンは、立ち竦んでしまっていたのだ。
無音の闇と無明の世界に取り残されて、一歩も動けなかった。
音もなく、光もない世界に閉じ籠もって、いっそ心も閉ざしていた方が、楽だった。
コンナニ長生キスルハズジャ ナカッタノニ・・・。
戦争という人殺しだけが取り得でしかないのなら。
イッソ 誰カガ 私ヲ殺シテ クレルマデ。
空を切って弧を描く炭素クリスタルの美しい白刃が振り下ろされるのを、あるいは、待っていたのかもしれない。
そして、幽明の境で憶えているのは、音もなく光も無い闇の中で茫と浮かぶ暖かな光と、その男の声。
その声が、何故今更、自分のことを呼ぶのかが、
光の在処は
なのに・・・。
その声の必死さが、幽境の狭間に満ちていた。
無音の闇の中、それは声ばかりで、その姿は、どこにも見えないのに。
痛い程の想いが幽思に溢れて、まるで深海のように包み込んでいた。
易々と、ヤンを受け止めてきた力強い腕と、深い胸の広さと。
多分、あれから、失うことばかりを、怖れていたような気がする。
望みもしないものばかりが溢れて、溢れるごとに、怖ろしくなる。
拡大するばかりの権力の代償が、この男であったら・・・。
きっと、もう、耐えられない。
それくらいなら、いっそ。
何モ見ナイ方ガ イイ。
何モ聞カナケレバ・・・。
クスと、ヤンが、小さく
だがそれは、
春になったら。
きっと、この男は、辛抱強く待ってくれていたのだろうに。
春に・・なったら・・・。
正体のないものに怯えて、無音の闇に閉じこもって、一人で足掻いていたのだ。
この男は、ずっと、傍にいてくれたのに・・・。
その腕、その胸の中は、深海に似ている。
厳として穏やかで、深として無であるのに、満ちている。
「ワルター・・・、ねぇ、ワルター」
その言い回しに、ヤンの心が、やっとヤンに還ってきたようだと、シェーンコップが微苦笑する。
「何です?」
それは、ヤンが
「スノー・ホワイトは、まだ、あそこの主で、いるかな」
スノー・ホワイト?
イゼルローンの
「さあ・・・。どうでしょうな」
難なく腕の中に納まってしまう、心細い手応えばかりの躰の負担にならないように抱き込みながら、応えた声は、少し癖のある黒髪を撫でていく。
「春になったら・・、また行こうって、言ったよね」
それは、イゼルローンを放棄して、虚空に浮かぶ軍事要塞を脱出する間際のことだ。
春になったら・・、また来たいよね・・・。
「ええ。言いましたな」
春になったら・・、また来ましょう・・・。
少し視線を落として、ほんの少し
青みをさえ感じさせる黒い瞳が、
「春になるのがいつになるかは分からないけれど・・・。夜が明けるのさえ随分と遠く思えるけれど・・・」
「閣下?」
「どこまで行けるのかも分からないけれど・・・。でも君・・・、ちゃんと見届けてくれるね」
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遠い夜明け(169.、遠い夜明け(171.を、修正しました。
仮定法過去〜遠い夜明け(171.
だから、それは、ヤンにすら思いもかけなかったのだ。
何を言っていいのかも見当 らないまま、漫然とした不安の、もっとも深いところにひそ と潜り込んだ小さな棘が、不意に零れ落ちたのだ。
「・・・私は、君が言ったように・・・、戦争しか、取り得がないのかも、しれないけど・・・」
その一瞬、言ってしまったことに身を竦ませたのは、ヤンの方だ。
「・・・ごめん・・。・・違う・・・、ごめん・・・。こんなこと・・言うつもりじゃなくて・・・。私・・・・」
何を言っていいのかも見当 らないまま、思いもかけずに不意に零れ落ちた小さな棘に、戸惑って、慌てたように身を離そうとする人の躰を、シェーンコップは構わず抱き込んだ。
腕の中に、深く抱き込んで、やっと、ヤンの漠然とした不安の正体を、痛感する。
「何故、貴方が、謝るんです」
それは、言い訳の利かない、取り返しのつかない、シェーンコップが仕掛けた手酷い仕打ちではないか。
「何故・・・?」
それも、見当 らない。
ただ、それは、絶対に言ってはいけないように、思えたのだ。
今でさえ、その男の人生を奪い取ろうとしているのに。
この男を、免罪の道具にしたいわけでは、ないのに。
その上・・・・。
「・・私・・・・」
その上・・・、贖罪まで求めようというのだろうか。
それは、けれど、息も出来ない程、胸が塞がれて。
「閣下」
直感だった。
今 たった今すぐに、この人の心まで抱き締めないと、ヤンはまた、尋常でない呼吸困難を引き起こす。
今 たった今すぐに、だ。
「ウェンリー」
それは、その男をしても、滅多に口にしない呼び掛けであった。
「ウェンリー」
それは、ヤンがその男の名を呼ぶよりも、更に私的な時にしか、決して呼ばない名であった。
「・・・・ワルター・・?」
それでも、それは、漫然とした不安に追い詰められていたヤンの心を、確かに抱き締めたようだ。
シェーンコップの腕の中で、酷く強張ってしまっていた躰が、ゆっくりと、それでもなんとか、ほぐれたようだった。
「俺が言ったことを、ちゃんと、覚えていますか?」
やっと、ほぐれた躰を抱き締めて、刻むように、確かめるように、言う。
「君が・・、言った・・、こと?」
言葉は、所詮、言葉でしかない。
言った先から、消えてしまうものだ。
だが、消そうとしても、決して消えない言葉も、ある。
消そうとしても、決して消えない惨い言葉の前にあっては、どんな言葉を尽くしても、ヤンの心に届いていようはずがない。どんな思いを込めようと、この人に、信じられるはずが、ないのだ。
一度、切り捨てようとしたのは 思い切ろうとしたのは、シェーンコップの方こそだ。
けれど、だからこそ。
言った先から消えてしまうものなら、何度でも、言おう。
消そうとしても、決して消せないのなら、それ以上のものを、込めよう。
この人が、信じられないのなら、信じてもらえるまで、何度でも。
「俺はね。貴方がもう、俺など要らないと言うまで、貴方の傍を離れませんよ。貴方が望まない限りは、決して貴方を、二度と、離さない」
「・・私・・・」
「いいですか。これは、貴方の望みではない。俺が、俺の意志で、望んでいることです。いいですか、ウェンリー。ちゃんと、覚えていて下さい」
そうして、随分と久し振りに、その腕に、力強く抱き締められたようだった。
そうして、漫然とした不安の、もっとも深いところにひそ と潜り込んだまま、凝 って凍り付いた小さな棘が、やっと、零れ落ちたようだった。
遠い夜明け(172.へ続く
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何を言っていいのかも
「・・・私は、君が言ったように・・・、戦争しか、取り得がないのかも、しれないけど・・・」
その一瞬、言ってしまったことに身を竦ませたのは、ヤンの方だ。
「・・・ごめん・・。・・違う・・・、ごめん・・・。こんなこと・・言うつもりじゃなくて・・・。私・・・・」
何を言っていいのかも
腕の中に、深く抱き込んで、やっと、ヤンの漠然とした不安の正体を、痛感する。
「何故、貴方が、謝るんです」
それは、言い訳の利かない、取り返しのつかない、シェーンコップが仕掛けた手酷い仕打ちではないか。
「何故・・・?」
それも、
ただ、それは、絶対に言ってはいけないように、思えたのだ。
今でさえ、その男の人生を奪い取ろうとしているのに。
この男を、免罪の道具にしたいわけでは、ないのに。
その上・・・・。
「・・私・・・・」
その上・・・、贖罪まで求めようというのだろうか。
それは、けれど、息も出来ない程、胸が塞がれて。
「閣下」
直感だった。
今
今
「ウェンリー」
それは、その男をしても、滅多に口にしない呼び掛けであった。
「ウェンリー」
それは、ヤンがその男の名を呼ぶよりも、更に私的な時にしか、決して呼ばない名であった。
「・・・・ワルター・・?」
それでも、それは、漫然とした不安に追い詰められていたヤンの心を、確かに抱き締めたようだ。
シェーンコップの腕の中で、酷く強張ってしまっていた躰が、ゆっくりと、それでもなんとか、ほぐれたようだった。
「俺が言ったことを、ちゃんと、覚えていますか?」
やっと、ほぐれた躰を抱き締めて、刻むように、確かめるように、言う。
「君が・・、言った・・、こと?」
言葉は、所詮、言葉でしかない。
言った先から、消えてしまうものだ。
だが、消そうとしても、決して消えない言葉も、ある。
消そうとしても、決して消えない惨い言葉の前にあっては、どんな言葉を尽くしても、ヤンの心に届いていようはずがない。どんな思いを込めようと、この人に、信じられるはずが、ないのだ。
一度、切り捨てようとしたのは
けれど、だからこそ。
言った先から消えてしまうものなら、何度でも、言おう。
消そうとしても、決して消せないのなら、それ以上のものを、込めよう。
この人が、信じられないのなら、信じてもらえるまで、何度でも。
「俺はね。貴方がもう、俺など要らないと言うまで、貴方の傍を離れませんよ。貴方が望まない限りは、決して貴方を、二度と、離さない」
「・・私・・・」
「いいですか。これは、貴方の望みではない。俺が、俺の意志で、望んでいることです。いいですか、ウェンリー。ちゃんと、覚えていて下さい」
そうして、随分と久し振りに、その腕に、力強く抱き締められたようだった。
そうして、漫然とした不安の、もっとも深いところに
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仮定法過去〜遠い夜明け(170.
そうして、その懐の深さは、より実際的で・・・。
深く広い胸、その強靭な腕は、難なくヤンを抱え込む。
ヤンの中に在る、惑いも不安も苛立ちすらも、いつも、難なく、抱え込む。
なのに、何故。
今は、こんなにも、遠く感じるのだろう。
この男の抱擁は、優しくはあったけれど、こんなに神経質ではなかった。
ヤンの元防御指揮官の腕は、温 かかったけれど、もっと強引だった。
次席補佐官の腕は、まるで壊れ物を扱うようだ。
不意に居た堪れなくなって、ヤンは、シェーンコップの胸を、軽く押し返していた。
「閣下?」
「ごめん・・・、シェーンコップ。私は・・、いつも、こうだな。とっくに選んだはずなのに・・・。進歩のないこと、夥 しいね」
「今更ですな、貴方の覚悟の不徹底は。気にしていたら、切りがない」
深く響く声に、少し微笑 った。
「でも・・、私には、徹底した覚悟なんて、持てないよ」
むしろ、それこそが覚悟であるように、シェーンコップには聞こえた。
仮に 。
もし仮に、ヤンが徹底した覚悟とやらを持った人間であったら、シェーンコップなどが使嗾するまでもなく、自由惑星同盟は疾 うに軍事独裁政権下にあり、宇宙は、ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーの、その天才と異才とが覇を競う為だけの、広大なウォー・ゲームの場でしかなくなっていただろう。
それはそれで面白味のある未来図ではあろうが、ヤンがそうした人物像の持ち主であれば、ヤンにとってシェーンコップは単なる一将兵に過ぎなかったであろうし、シェーンコップの視界が、これ程までにヤンを捉えることもなかったはずだ。
「・・・アッテンボローが言ったように、私には、私の出来る範囲で、一歩ずつ進んでいくことしか、出来ないから・・・」
【自分に出来る範囲】が、無尽蔵の可能性を秘めている人は、だが、一歩進んだかと思えば立ち止まり、為したことを悔いては、考え込んで座り込む。ようやく立ち上がったかと思えば、一寸先も見えない靄 の中で手探りするように、次の一歩が踏み出せない。
そのくせ、その人の視界は、まるで遥かな高処から下界を眺めるように、未だ埋められていない歴史の頁の先までも見通すのだ。
条理も不条理も、世の理 でさえも掌中にしている感のある人は、超克たる視界を持ちながら、だが、その人自身は、いつも、不快に湿った濃い靄 の中から、出ようともしない。
だが、それこそが、この人が、無意識の内にする、抑制なのだ。
見えてしまうことが怖ろしいのだと、その異才にこそ傷付けられる人が、もし徹底した覚悟を持てれば、この人は、ラインハルト・フォン・ローエングラムをさえ凌ぐ覇者になれるだろうに・・・。
「言ったはずですぞ。貴方は貴方の最善を尽くせばいいだけだ。それで、どこへ辿り着こうと、最後まで付き合わせて頂きますとも」
「最後まで・・・?」
その言葉は、嘘ではないだろう。
世界の全てが敵に回っても、きっと、この男は傍にいる。
なのに何故、こんなに遠く感じるのだろう。
「閣下?」
怪訝げなシェーンコップに、ヤンは、惑うように視線を伏せてしまう。
漫然とした不安は、いつも、冷たい月の光へと戻っていく。
勿論、今となっては、それは確かに、必要なことだったのだと、理解はしている。
何より、最終的に、選んだのは、ヤンだ。
けれど・・・。
「閣下?」
それは、ヤンの無意識の所作だ。
この人が、不安を抱えている時の、無意識の所作なのだ。
「どうしました?」
惑うように視線を伏せて。
シェーンコップの服の端を、握り締める。
「君・・・、私に君をくれるって、言ったよね」
「言いましたな」
視線はいよいよ伏せられて、握り締める力が強くなる。
「何があっても、どんなことがあっても、傍にいるって、言ったよね」
「閣下?」
この人は、いったい何に不安を感じているのかと、シェーンコップはようよう、その端整な顔を顰めた。
「・・・私・・・・」
何故、不安なのかが、見当 らないのだ。
何か言いたいのに、何を言っていいのかも、まるで理解 らないのだ。
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深く広い胸、その強靭な腕は、難なくヤンを抱え込む。
ヤンの中に在る、惑いも不安も苛立ちすらも、いつも、難なく、抱え込む。
なのに、何故。
今は、こんなにも、遠く感じるのだろう。
この男の抱擁は、優しくはあったけれど、こんなに神経質ではなかった。
ヤンの元防御指揮官の腕は、
次席補佐官の腕は、まるで壊れ物を扱うようだ。
不意に居た堪れなくなって、ヤンは、シェーンコップの胸を、軽く押し返していた。
「閣下?」
「ごめん・・・、シェーンコップ。私は・・、いつも、こうだな。とっくに選んだはずなのに・・・。進歩のないこと、
「今更ですな、貴方の覚悟の不徹底は。気にしていたら、切りがない」
深く響く声に、少し
「でも・・、私には、徹底した覚悟なんて、持てないよ」
むしろ、それこそが覚悟であるように、シェーンコップには聞こえた。
仮に
もし仮に、ヤンが徹底した覚悟とやらを持った人間であったら、シェーンコップなどが使嗾するまでもなく、自由惑星同盟は
それはそれで面白味のある未来図ではあろうが、ヤンがそうした人物像の持ち主であれば、ヤンにとってシェーンコップは単なる一将兵に過ぎなかったであろうし、シェーンコップの視界が、これ程までにヤンを捉えることもなかったはずだ。
「・・・アッテンボローが言ったように、私には、私の出来る範囲で、一歩ずつ進んでいくことしか、出来ないから・・・」
【自分に出来る範囲】が、無尽蔵の可能性を秘めている人は、だが、一歩進んだかと思えば立ち止まり、為したことを悔いては、考え込んで座り込む。ようやく立ち上がったかと思えば、一寸先も見えない
そのくせ、その人の視界は、まるで遥かな高処から下界を眺めるように、未だ埋められていない歴史の頁の先までも見通すのだ。
条理も不条理も、世の
だが、それこそが、この人が、無意識の内にする、抑制なのだ。
見えてしまうことが怖ろしいのだと、その異才にこそ傷付けられる人が、もし徹底した覚悟を持てれば、この人は、ラインハルト・フォン・ローエングラムをさえ凌ぐ覇者になれるだろうに・・・。
「言ったはずですぞ。貴方は貴方の最善を尽くせばいいだけだ。それで、どこへ辿り着こうと、最後まで付き合わせて頂きますとも」
「最後まで・・・?」
その言葉は、嘘ではないだろう。
世界の全てが敵に回っても、きっと、この男は傍にいる。
なのに何故、こんなに遠く感じるのだろう。
「閣下?」
怪訝げなシェーンコップに、ヤンは、惑うように視線を伏せてしまう。
漫然とした不安は、いつも、冷たい月の光へと戻っていく。
勿論、今となっては、それは確かに、必要なことだったのだと、理解はしている。
何より、最終的に、選んだのは、ヤンだ。
けれど・・・。
「閣下?」
それは、ヤンの無意識の所作だ。
この人が、不安を抱えている時の、無意識の所作なのだ。
「どうしました?」
惑うように視線を伏せて。
シェーンコップの服の端を、握り締める。
「君・・・、私に君をくれるって、言ったよね」
「言いましたな」
視線はいよいよ伏せられて、握り締める力が強くなる。
「何があっても、どんなことがあっても、傍にいるって、言ったよね」
「閣下?」
この人は、いったい何に不安を感じているのかと、シェーンコップはようよう、その端整な顔を顰めた。
「・・・私・・・・」
何故、不安なのかが、
何か言いたいのに、何を言っていいのかも、まるで
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